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「意思」×「能力」=自分を信じる力

  • 2024年6月26日
  • 読了時間: 4分

前回のブログでは解釈力こそ「心」であり、その解釈力を積み上げる為には「継続」する事だと、そして何かを継続する事は人生で一番難しくその土台にある要因は「自分を信じる力」であるとお話しさせて頂きました。


今回は私自身を語り「自分を信じる力」そんな心に迫っていこうと思います。

*現在、認知症は心の問題と内臓機能低下の双方の問題が示唆されています。



私は1993年に社会に出ました。

その年は皇太子様と雅子様の御成婚により華やかなムード香る年でありましたが経済が滞り始めた「失われた30年」の幕開けでもありました。


そんな事を知る由もなく社会にはフリーランスという新しい働き方が取り沙汰され、希望の光を感じた事をよく覚えています。

不景気が足を忍ばせるなか、それでも社会には「期待」が見え隠れし私は浮かれながらそこそこ順調なスタートをきったのではないかと思います。


しかし勤めたスタジオ、関わった企画が潰れ、私が幼少期から観ていた子供向け教育番組に振付として入り、これで安泰かと思った矢先、その番組までが無くなった時は自分は何かに取り憑かれているのではと疑い、途方にくれたのを覚えています。


TVニュースで40〜50代の事件報道があると他人事とは思えません。その加害者も私と同じ様に自分が何かに取り憑かれ、上手くいく事が上手くいかず自暴自棄になり、ひと時の感情を制御できず罪を犯してしまった。


もう少しだけ歯を食い縛る事が出来なかったか。

その状況を少しだけ変える、乗り越える術を見つける事ができなかったか。

話しを聞いてくれる友達や恋人はいなかったか。

大っぴらに話す事の出来ない、憂さ晴らしを何か一つ持つ事は出来なかったか。

捨てるべきプライドを捨てる事は出来なかったか。

心にほんの少し余裕を持つ事は出来なかったか。


もし私がダンスでは無理だと恐れ、自分を欺き、投げ出していたら

自分はニュースの加害者同様、歯を食い縛れず、乗り越える事が出来ず、罪を犯したであろう事を容易に想像する事が出来ます。


私は幼少期からダンスを習った訳ではなく学生の遊びとしてダンスをかじった程度で、一流になれない事を最初から理解していました。

それでもダンスを心底好きになり信じる事が出来ました。ただ信じた。それだけです。理由は人は踊るいきものだという事。そしてこう解釈した事をよく覚えています。

「一流にはなれない でもダンスが好きな人は沢山いるだろう。その人達と何か出来るかもしれない」と。


「意思」×「能力」=自分を信じる力


運動力学の身体動作の簡素な説明

身体動作は内側から生み出したり制御したり変更したりする「内力」と外部から作用する重力・摩擦・空気抵抗・負荷などの「外力」の結果として生じる


この説明になぞって意思と能力について考えてみたいと思います。


「意思」とは

何かをしようとする考えや思い

記憶力の土台となる感情を通じた体験とその体験から得る良し悪しのストックをもとに判断力・遂行力が生まれ、自らの意思「内力」として確立される。


「能力」とは

様々な状況下にさらされる「外力」の結果として培われる。


運動力学の身体動作の簡素な説明とは

「内力」と「外力」の結果として身体動作が生まれるでした。これを

「意思」と「能力」の結果として心体動作が生まれる。と考えてみると

人生は自分を信じるか恐れ欺くかの内力と外力の結果として培われる能力の影響力学と言ってもいいのかもしれません。


「自分を信じる力」とはそんな影響力学の最大の目標であり、また土台といえます。しかし自分自身の能力では処理不可能な外力、特に幼少期の環境要因は大きな比重を占めると言えます。


そして何かしらのトラウマが残れば、自分を信じる事が難儀な場合もあるだろうと想像します。


私達は「自分を信じる」を手に入れる為の環境こそを守るべきではないでしょうか。

その環境の土台は身体と心のバランスを獲得できる社会。

これは人間の根源的な要求ではないかと思います。


「自分を信じない」自由も対極にはあるとは思います。しかしそうなる理由があったのなら、もう一度信じる理由を社会が作る必要があると思います。

この人間の根源的な土台となる要素を満たす事の出来ない社会とはどんな社会でしょう


時代は環境をつくり 環境は「人」をつくる 


認知症とは近現代の病

根源的といえない時代の病です。

*アルツハイマー型認知症が初めて報告されたのは1906年 産業革命以降約150年後 現在から120年前


様々な格差や貧困を自己責任とすれば「自分を信じる」は遠のきます。


社会は変わらないかもしれない

ならば自分が変わるしかない


根源的な社会の営みとは

各人はその能力に応じて与え 各人はその必要に応じて受け取る


自分を信じる事が出来れば相手を信じる事にも繋がりますよね。



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